北海道日帰り温泉の旅
平成24年8月5日
August 5, 2012
北見峠の中央道路開削殉難者慰霊の碑
現 在の北見峠は、高規格道路が主たる交通の手段となっているため店舗の灯も消えて人影も殆ど無い 状態になっています。
取材で度々お世話になっている下白滝山崎裕由氏によれば昭和四十年代に子牛を求めるため上川町中越に向かうためこの峠をトラックで超えたそうで す。
まだまだ難所が多く、父親との二人連れだったそうですが「二人ともに崖下に転落したら。」と一人が車から降 りて難所を乗り越えたとのことでした。
曲がりくねっているとはいえ、完全舗装で現在の車両の性能では難なく通過できますがすでに主役の座は高規格 道路に奪われてしまいました。
それにしても、現在完全に廃村となっている当時の上川町中越は酪農先進地だったよ うだし、絶句です。
中 央道路開削殉難者慰霊の碑
中 央道路開削経過
中 央道路は網走に起こり北見 留辺蘂 佐呂間 野上を経てこの「北見峠」を越え上川愛別 旭川 にいたる当時全長五十七里十四町十一間(ニニ五粁四〇ニ米)
の 殖民道路であり拓殖と北辺防衛上極めて重要視され開削されました
し かもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役 として開削されたものであり明治ニ十四年春着工以来
わ ずか七ヶ月余りを経た同年十一月にはこの北見峠まで網走から三十九里(一五六粁)の道路が完 成を見るに至りその作業能率は今にして見れば驚異的
な ものでありました。したがって作業内容は想像を絶する過酷につぐ過酷不眠不休の労役が続けら れ 特に惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は加度の労役
と 病にたおれた死者百八十余名に及び死亡者は路傍に仮埋葬されたまま、弔う人もなくそまつな名 もない墓標は風雪にさらされたまま、月日のたつに従い消え
さ り今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました
そ の後昭和三十二年春白滝村下白滝で六体を発見収容 昭和三十三年遠軽町字瀬戸瀬で四十六体を 発見収容 更に昭和四十八年十月白滝村字白滝東区で
六 体を発見収容それぞれ供養の上改葬しましたが未だ当時埋葬のまゝ地に埋もれる霊の多いことを 想いこゝに殉難者慰霊の碑を建立しこの道路建設のいしづえ
と なった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります
駅逓が北見峠に設けられた記録はありませんが、遠軽町旧白滝 白滝村開拓の碑には野 上駅逓取扱人角谷政衛の尽力で石北峠休泊所取扱人石上藤蔵が明治三十五年旧白滝十七号地に 入植
と彫られています。官設のほかに中継ぎの施設もあったようです。
中央道路開削殉難者慰霊の碑は北見峠を越えると全く見られなくなります。その答えは上 川町の北見(中央)道路開削の碑にありました。
明治23年伊香牛ー北見峠間請負人佐藤倉吉によって開削となっています。こちら側はどうやら民間委託に よって工事が進められたようです。
この囚人労働はその後の公共事業などで前借金で縛り付け過酷な労働を強いたタコ部屋労働に引き継がれたと 言われています。
旧天幕駅 旧中越駅 旧上越駅 旧奥白滝駅 上白滝駅 白滝駅 旧白滝駅 下白滝駅 丸瀬布駅 瀬戸瀬駅
越路官設駅逓跡の碑 は現在の国道、鉄道から大きく外れていて、開発計画と実際が違っていたことをうかがわせます。