北海道日帰り温泉の旅

 

 

平成24年8月5日

August 5, 2012

 

石北本線 上白滝駅付近

白滝村開拓の碑(旧白滝開拓の碑)には白滝 入植者第一号は旧白滝に入植した石上藤蔵と記されていますが、明治 45年紀州団体54
戸が白滝、上白滝に入植したのが、白滝開基とされているようです。紀州と聞くと何となく山間のイメージがあります。開拓と林業
へのなじみはここに入植する人たちにとって、良い条件だったのではないでしょうか。

合 気道開祖植芝盛平翁ゆかりの地の碑

 

 

単なるこの地に縁のあった著名人と いうのではなく、白滝開基の紀州団体の団体長で、開拓と公職に大きな尽力
のあったことが記されていました。

合気道開祖植芝 盛平翁ゆかりの地の碑

明治十六年 十二月十四日和歌山県西牟妻郡西々谷(現在の田辺)に生まれた植芝盛平は幼少期より神童かと思わせる素振りを見せはじ め、少年

期に入ると、起倒神陰など各流の武道遍歴がはじまる。

 青年期に 入って政府の北海道開拓移住民団体募集計画の呼びかけに殊の外強い関心をいだき、団体移住の決意を固め、五十四戸の同志 を募り推

されて団体長となり、明治四十五年五月紀州団体として、この白滝の地に入植(後白滝における開基とされる)開拓の鍬を振 うかたわら団体長として

の職務の遂行に東方西走,さらには議会議員の要職をつとめる等不眠不休の日々が続いた。

大正四年た またま大東流の達人武田惣角に遠軽において初見、その機縁より自宅に招いての練磨により、武道の目を開いた。大正八年 秋、故郷

より火急の報を受け意を決して家族共々白滝の地を離れた。帰郷のと,京都綾部に出口王仁三郎なる鎮魂帰神の偉人いるを知 り接見、父の没後再

び出口師を尋ねひたすら師事し、やがて「我即宇宙」の妙諦にめざめ気、心、体の妙理、合気道の創始者となるに至った。爾 来,盛平は,合気は愛

気に相通ずる信念により万有愛護を旗じるしに国内はもちろん世界各地に合気道の普及に努めた,昭和四十四年四月二十六 日、八十六歳で巨星落

つるの感をもって他界、同日付をもって生前の合気道創始とその卓越せる普及の功績により、正五位勲三等瑞宝章が叙勲された。

 現今、合気道が国内外に益々飛躍的発展を 見せていることに最大の賛辞を送り、開祖盛平翁がその昔、この白滝の地において率先開拓に汗を流

したゆかりの地にこのしるしを建てるもの である。

昭和五十八年十一月建立
 

 

 

 

上 白滝神社

合 気道開祖植芝盛平ゆかりの神社とのことだが、それを物語る碑などは見つからなかった。

 



線路に入らな いと上白滝神社には到達できません。 

 

 

 

残 念ながら「開拓者」以外の文字は判別できませんでした。植芝盛平翁をたたえて建立されたもの でしょうか。

 


上白滝神社

上支湧別の神社も驚かされますが、こちらもなかなか本格的造りの神社です。困難な開拓と戦後の入植者を迎えての歴史
の中でも揺ぎ無かった人々の「おらが村」にかける情熱が伝わってくるようです。

 

 

上白滝駅は無 人駅ですが、立派な駅舎のある現役の施設です。

駅前の小さな 集落には食料品のお店もあります。

 

旧村立白滝三 和中小学校



 

 

 

三 和小・中学校跡の碑

戦後の開拓者 子弟教育のため散在していた小学校を統合して上白滝に小学校、そ して中学校が設けられたようです。


 

三 和小学校・三和中学校の歩み

本 校は、終戦後逼迫した食糧難の打開策として政府が奨励した未開地および荒廃地の開拓のため、 本村にも道内外からの入植者が年とともに増加し、特に天狗平地区の入植者が多かったことにより、

こ の地区の師弟の教育をどのように進めることが良いか地域有志が解決策について協議を重ねてい た。このことが村議会においても真剣に検討が加えられた。昭和二十五年六月の村民大会において

小 規模の学校を解消し、教育効果のあがる適正規模の学校とするため奥白滝小学校、東白滝小学 校、を閉校し、上白滝、奥白滝、東白滝、天狗平を通学区域とする統合校舎を上白滝に建設することが

確 定した。ただちに校舎建設に着手し同年十一月一日村立三和小学校として児童数百五十八名、三 学級編成で授業を開始した。翌年四月一日から三和中学校を併置し白滝中学校に通学していた生徒

八 十四名が転入学となりニ学級編成で開校。その後、木材産業の不振、農家の離農などにより流出 戸数が目立ち在校生も小学校は昭和二十八年の百九十一名、中学校は昭和二十七年の八十六名

を ピークに年々減少の一途をたどり、中学校においては複式編成となる見通しのため統合の機運も 高まり、関係住民と話し合いを進めた結果、昭和四十六年四月一日から白滝中学校に統合すること

の 同意を得たので教育委員会は三和中学校を廃止する議決を行った、三和小学校も中学校と同じく 急速に減少する児童数により統合が余儀ない状況にあるため教育委員会は、校下関係住民との

話 し合いを重ね同意を得て昭和四十九年三月三十一日をもって三和小学校の廃止を議決した。三和 小学校ニ十四年、三和中学校二十年の歴史に終止符が打たれこの間送り出された卒業生は

小 学校四百六十は地名、中学校四百十七名となっている。

と 記されている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滝 の上駅逓跡

 

 

 

遠軽町上白滝 滝の上駅逓跡の碑

遠軽町上白滝 旧白滝村立三和小中学校跡

旧天幕駅   旧中越駅   旧上越駅   旧奥白滝駅   上白滝駅   白滝駅   旧白滝駅   下白滝駅   丸瀬布駅   瀬戸瀬駅

遠軽町白滝天狗平 東白滝小学校跡の碑

支湧別中 学校跡の碑

旧支湧別 小学校

旧白滝小学校跡

村 立奥白滝小学校跡


 

 

 

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