北海道日帰り温泉の旅
平成24年8月5日
August 5, 2012
上川町
石北本線旧天幕駅跡
石北峠に向かう国道と
分岐してしばらく進むと山深くなってきますが、農家もほぼ周辺に見られなくなってきた地に上川小学校発祥の地の
碑がありました。現在 の上川町市街地付近からの開拓、もしくは旭川よりの地域からの開拓ではなかったのですね、剣淵の屯田兵
入植が明治32年です から、それより一、二年遅れてこの地にも開拓の鍬が入ったことになります。
上川小学校発祥の地の碑
明治35年、留辺志部
簡易教育所開設(上川小学校発端)と上川町のホームページにあるので、ここがその地でしょう。しかしながら、
旧上川町立越路小学校
の碑には明治33年4月20日開校、昭和55年3月31日廃校とあり、また、開拓入植も越路が最初と記録
されているので、そち らが本物かもしれない。
ひょつとすると<上川小学校>の発祥の地?それにしても、現在の街の中心からは大きく外れています。
明 治35年九月仮校舎の跡とあります。
旧天幕駅の駅舎は既に 取り壊されているようです。
昭和6年買鉱専 門の天竜鉱山付属精錬所が出来、鴻
之舞、手稲に次ぐ産出量であった千歳鉱山から金鉱石を運 び精錬が行われ、昭和28年には木工場が進出、
駅前が賑わった時代も
あったようだが、時代は精錬所閉鎖、木工場閉鎖、離農過疎化と進み、現在は数戸の農家が残るだけとなり
、開拓された農地も自 然に戻りつつあります。
上川町の農業適地は地理的にとても限られていますから、菊水部落を除き大きな団体
での入植は見られません。それでも人々は駅逓沿いにわずかの土地を求め
果敢に挑戦し、一つの集落がで き、入植地が無くなればまた別の山間の地、それもなくなれば高地へと進出しそれなりの賑わいを得ながらもついには圧倒的な
時代の変化に対応する策も枯渇し廃村化した小集落が多くみられます。ただ、まだまだ諦めているだけではないの が上 川町民の凄さで、
豊原や白川の高地酪農、などに異次元のエネル
ギーも感じます。
天幕駅跡の碑
天幕駅駅名の由来
碑に書き込まれている
説以外にも諸説があるようです。天幕三次郎なる人物も本名ではなく、また、入植者でもないようです。
駅舎跡から道路へ
森の中に埋もれて朽ち かけた建物に、<旭川、北見、中継>の文字が読み取れました。何の建物だったのでしょうか。
「旭川北見間第二電話 中継所」と後に判明しました。
現在人が居住している
様子はありませんが、屋根のペンキが新しく、居住以外の目的で使用されているのでしょう。
かつての農地と思われ
る平坦地は、荒れて鹿と遭遇する始末でしたが、艱難辛苦の末開いた農地の跡でしょう。
瀬戸瀬温泉日帰りの旅の途中立ち寄りポイントです。
旭川駅 ー 旭川四条駅 ー 新
旭川駅 ー 南
永山駅 ー 東
旭川駅 ー 北
日ノ出駅 ー 桜岡駅 ー 当麻駅 ー 将軍山駅 ー 伊香牛駅
ー 愛別駅 ー中愛別駅ー 愛山駅ー 安足間駅 ー 東雲駅 ー 上川駅 ー 旧天幕駅 ー 旧中越駅 ー 旧上越駅 ー 旧奥白滝 駅
ー 上白滝駅 ー 白滝駅 ー 旧白滝駅 ー 下白滝駅 ー 丸瀬布駅ー 瀬戸瀬駅 ー
遠 軽駅
遠軽
町丸瀬布 7号滝ノ下駅逓ー遠軽町上白 滝
滝の上駅逓跡ー上川町北見
峠駅逓跡ー上川町中越
官設駅逓所跡ー 上川町越路官設駅逓所 跡
北海道開拓で重要な役割を果たした中央道路(拓殖道路)で考えると北見
から旭川に向かうためには越路官設駅逓に向かうこととなります。現在
の国道か
ら考えると大きく山回りをする形ですが、上川町はこの道路に沿って開拓民が流入しているようです。下記リンクを参照ください。
上川町越
路 越路地区は上川町発祥の地です