北海道日帰り温泉の旅

 

 

 

 

 

平成24年8月5日

August 5, 2012

 

天狗平 支湧別 白滝市街 下白滝 の歴史的ポイントと丸瀬布7号滝ノ下駅逓

白滝の地名はなんとも愛想のない命名です。奥から奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝。支湧別川沿いに拓かれた地域だけは支湧別で、後はかろうじて天狗平などの地名があるだけです。

北大雪スキー場付近から天狗平方面を望む。戦後の緊急入植で開かれた地域のようだ。標高は高く内陸深くなるので雪どけは遅いだろうが、

なだらかな丘陵地帯がこの付近には珍しいほどの広がりを見せている。

 

 

 

 

上支湧別市街

街の全体は撮影できていませんが、旧白滝村の中では白滝市街に次ぐ街並みかも知れません。ただ、中身としてはどんどん過疎化が進んではいるのでしょう。

 

上支湧別神社

大正3年6月建立、大正大正6年大火にあい現在は別の土地に建っているとのことです。入植して数か月後には神社を建てていたんですね。

 

支湧別の開拓記念の碑には「大正三年移住」の文字が読み取れます。

後出の白滝村開基六十五年開村三十周年拓魂碑 に「長野団体十戸上支湧別入植」の文字があります。

先に旭岳温泉白樺荘訪問の際途中立ち寄りした忠別ダム望郷広場望郷の碑 碑文 では、やはり長野下伊那地区よりの移住開拓であったと記載されていましたから、

この時代北海道開拓が進み敵地が限られてきたことと、山間部を得意とする長野県人の特性が現われているのかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

支湧別中学校跡の碑

 

三和小・中学校跡の碑と同じような経緯が記載されていました。

 

旧支湧別中学校

 

 

 

旧支湧別小学校

山深い山間部の耕地は平坦地が少ない上日照時間が短く、水が出やすく、石が多く、雪解けが遅くなどなど多くの悪条件が重なるものですが、この地を離れて都会に出た卒業生たちは

どのように人生を切り拓いていったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白滝村開基六十五年開村三十周年拓魂碑

白滝村の歩み

明治四十五年三月紀州団体五十四戸白滝上白滝に入地。

大正二年三月秋田館合団体十四戸支湧別へ入地。四月秋田稲庭団体十一戸支湧別へ入地。福島団体奥白滝へ入地。十月奈良団体十一戸支湧別へ入地。

三年二月山形団体十五戸奥白滝へ入地。三月福島団体十五戸奥白滝へ入地。長野団体十戸上支湧別へ入地。

八年四月一日上湧別村から遠軽村分村白滝は、遠軽村の行政下となる。

昭和四年八月丸瀬布 白滝間鉄道開通。

昭和七年八月石北線全線開通。

九年三月支湧別川向開拓移住民仁十四戸入地。

十一年三月天狗沢移住民三十三戸入地。

十二年三月支湧別五線沢開拓移住民二十戸入地。

などの記述があります。

 

白滝神社の忠魂碑

陸軍大将井上幾太郎書とあります。白滝とどのようなかかわりがあったのでしょうか。

 

 

 

白滝神社

 

 

村名白滝発祥の地の碑

 

 

 

 

 

七号駅逓跡の碑

七号滝の下駅逓跡

 

七号滝ノ下駅逓跡

明治24年北見地方の警衛と開発のため旭川〜網走間の中央道路が開削され、合わせて沿線に一号〜十二号官設駅逓が建設された。

入植者や旅行者の便のため旅館と運送店を兼ねた施設である。

ここは七号駅逓と呼ばれ、無人休泊所として利用に供されていたが、明治26年6月30日滝の下駅逓として開業した。しかし通行宿泊者は

月数人ていどという状態のため、隣駅まで五里という未開地に在って、自給自足を余儀なくされ苦難に耐え忍んだのである。北見地方に駅逓

の果たした役割は大きく、そのご苦労を偲びその貢献を讃えるため、ここに記念碑を建立するものである。

歴代取り扱人

明治26年6月30日  佐藤  多七

同27年5月     八木 愛之助

同32年        中島 重次郎

同36年4月       国沢 歴蔵

同38年6月      気田 和三郎

大正4年9月10日    塩田 覚治

昭和2年4月30日        廃駅

平成十年十月建立

七号滝ノ下駅逓

開設百年記念碑建設期成会

 

 

 

 

 

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