北海道日帰り温泉の旅
平成24年8月14日
August 14, 2012
美瑛町 俵真布を訪ねる
朗根内のアイヌ語の意味が「深い沢」とのことですから、更にその奥の俵真布は深い沢の更に奥地ということになります。農道の迂回路を別とすれば、一般的には街
まで片道20キロの距離のこの地に開拓の鍬を入れた先人は壮絶な闘いでこの地を切り拓いたことでしょう。
現在見受ける姿は比較的規模の大きな農家が散在し、集約化大型化が進んだようで、山奥の寒村のイメージではありません。朗根内寄りの耕地は水田、奥に進む
につれ、畑作に変化し、人材派遣の車が停まっている農地では大人数で野菜の収穫作業がされていました。
旭川を発ち東川町、東神楽志比内、美瑛町朗根内経由。朗根内市街地を過ぎて間もなく奇妙な建物を発見。
コンクリート製の確りした門柱は表札が落ちているが、公共的な使われ方をしていたものと見受ける。
窓ガラスの一部は破損しているが、正面のガラスから突き出ている円筒は現在も時折は使用されている仮設設備のようにも見える。
馬頭観世音碑に「倶楽部敷地・・・・・・・」とあるので、青年会の倶楽部だったものか。
朗根内馬頭観世音碑
農耕、交通、時には娯楽に開拓時代には馬の役割はとてつもなく大きなものだったようで、丸山公園の開拓記念の像にもその様子が刻まれています。
朗根内馬頭観世音碑 には昭和二十七年九月十九日建立と刻まれています。
紀念 倶楽部之敷地寄贈 熊谷三○蔵殿 昭和四年八月 とあります。
明治43年には朗根内青年会が作られていると神社の石碑にありますから、青年会の倶楽部ということでしょうか。
開拓期に青年会の果たした役割は現在では想像もできないほど大きなものだったことでしょう。
大己貴大神、天照皇大御神、少彦大神、植安姫大神、を祀った碑には青年会員の氏名が刻まれているが、建立年は不明
明治43年には朗根内神社が建てられていますから、それより古いものかも知れません。
俵真布小学校付近
俵真布開基七十年の碑
美瑛辺別御料地面積六〇〇町帝室林野局は農地として貸付すべく人選、該当者百五十名入植許可さる
時正に大正二年三月一日、地名を俵真布と改む
昼尚暗き密林を開発七十年在今日美田、将来の発展を期待す。
浜田喜一郎
現在十数戸の俵真布も開拓初期には百五十名に入植許可が出ているとのことですから、それに近い数の入植者はいたのでしょう。
俵真布小学校の教員住宅 は現在使用されていないようです。北海道移住の希望があれば、町から安価で借りることも可能のようです。
旧俵真布小学校
都会では見かけなくなった二宮尊徳像ですが、こちらは比較的近年のものかブロンズ製の立派なものです。
農村には今も二宮尊徳像の思想を学ぶ報徳会などが健在のようです。
「えーーー!これが。」と思うような旧俵真布小学校です
公共交通機関はバスのみで、日三便の運行のようです。
美瑛町公民館俵真布分館
耕地が途切れる地点間まで進むと道路上にキタキツネの姿を発見。こちらを見つめています。
一旦耕地が途切れ山林の中の舗装道路を更に進むと辺別川に架けられている「上俵真布橋」にさしかかる。
上俵真布橋を僅かに進んだあたりに上俵真布小学校<昭和39年閉校>があったとのことだが、昭和40年頃に
集団離農により集落自体がなくなって景観はほぼ自然に帰っています。
上俵真布小学校の跡地は痕跡も不明でしたが、道路脇に小さな建物の朽ち果てた残骸がありましたので、関連の施設だったかも知れません。
それでも、舗装のきれる地点まで進むと山の中に突然耕地が広がりました。比較的規模が大きく完璧な平坦ですから、
近年大型機械により造成されたものではないでしょうか。
さすがにこれだけ山深く分け入ってくると砂礫の多さが目に付きます。
白い線が張り巡らされているのは、野生動物から作物を守る電牧でしょうか。
川下から連続する耕地の最奥ポイントから撮影
川下から連続する耕地の最奥ポイントから撮影
そのT
そのU
美瑛町 美沢開拓の碑 丸山公園開拓記念の像 美瑛町朗根内開拓100周年記念碑 他