北海道日帰り温泉の旅

令和3年10月10日
October10,2021


鷹栖町稲作(水田)発祥の地の碑

カーナビ入力の上出かけました。鷹栖町10線1となっ てい ますが、枝番まで入れないととても目的地には到達できそうもありません。
翌日旭川方面からですので近文墓地、自衛隊近文分屯地の横をそのまま真っすぐ鷹栖町に進むと丁度突き当りに目的の地が確認 できま
した。鷹栖町民の母なる川オサラッペ川から遠くはないのですが、どちらかと言うと山寄の地域になります。碑文にも澤水を利 用して
作付けしたとありました。明治25年のことですから、初めて上川で水稲試作された翌年にはこの地でも試作されたことになり ます。








鷹栖の稲作は、この地に始まる。明治二十 五年二月五 日、開村をみた鷹栖村に、翌年、十線一号甲に移住した岩手県団結
移住団体員山崎千松は三十歳の春、ようやく拓いた原始林中の澤水を利用して、二畝(二アール)ばかりの水田を造り、
札幌白石の駒井覚助より譲り受けた種籾を、試作したのであった。幸い、この年は好天続きで、秋には豊かな稔りを得る
ことが出来たのであった。 この朗報は以後の移民に希望をあたえ、稲作への強い願望は、明治三十四年、移住民有志に
よる水利調査会をつくり、灌漑溝路の測量を成し、三十五年、北海道土功組合法の施行とともに、近文土功組合を創立
するに至った。二畝の水田の試作からはじまり、以来水稲を基幹とする村として繁栄し、
百幾星霜、幾多の苦難を乗り越えて、稔り豊かな六千余町歩(六千ヘクタール)の美田を擁するに至った。ここに先人
の苦難の歩みに、感謝の誠を捧げ、栄光を讃え、さらなる世紀への発展を祈念し、発祥之地の碑を建立する。


やがて 各地で稲作に成功し、近文溝路の開さくがすすみ、千松も造田を大々的に拡 げていった。しかし、大正2年の
大凶作、加えて家族に病人が続き、
農耕馬を1年の 間に2頭も斃死さすなど、思わぬ不運が訪れた。遂に後ろ髪を引かれる思いで土地を 手放し、芦別市に
移住した。大正6年頃であったとか。
鷹栖町文化財資料NO.5

 
    

協賛者に山崎会と山崎姓があります。ご本人は転地のや むなきに至っ たとのことですが、
せめて一族の者がこの地で稲作経営を成功させていればとの思いがします。











 

碑 の地点からのパノラマです。




















旭川市上雨紛 上川水稲発祥の地の碑

上川水 田発 祥之地の碑 (永山神社内)

当麻町中 央六区 当麻稲作(水田)発祥の地

美瑛町旭 水 田発祥の地

東川町 水稲 発祥の地の碑

比布町北3線 11号 水田発祥の地の碑と開拓記念碑

士別 市稲作(水田)発祥の地







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