北海道日帰り温泉の旅
平成27年9月21日
September 21, 2015
遠軽町旧白滝 小さな産業遺産・山崎家の澱粉工場跡
戦前戦後を通じて北海道の畑作地帯では夥しい数の澱粉工場が操業していましたが、現在その姿を とどめているものは極めて稀です。交通
事情の悪かった時代は市場に出荷するのに有利であるばかりでなく、農作業の一段落した後の労働 力を活用できるなど、付加価値を高める
以外にも多くのメリットがあったのだと思います。
山崎家の澱粉工場跡は勇別川に接近した低地に造られており、原料芋は一段高いところから落差を 利用して工場に送られたとのことです。
遠心分離機や、動力を伝える機材に十分な機械力を用いていることから戦後しばらくしての創業 だったと思われます。工場脇には現在も小さ
な流れがあり、この流れも活用されていたものかも知れません。現在の当主の山崎裕由氏は南湧別兵村に入植した屯田兵からの分家で、
三代目に当たるそうです。:現在は所有する耕地の総てが草地として利用されているとのことで す。
昭和30年台に入り各地の小規模澱粉工場は、広域をカバーできる大規模な合理化澱粉工場に置き 換わり役割を終えていきます。小さな河川
であれば魚が一匹も棲まなくなったなどという河川汚染の問題も生じ、また馬車主体の輸送が道路 の整備と相まって車に置き換わり農業の各
分野で合理化が急速に進んでいったことも大きかったのではないでしょうか。
山崎家の澱粉工場跡は昭和40年頃まで創業していたようです。
磨砕、篩で発生した粕交じりのの原料を脱水する為の遠心分離機でしょうか。
こちらが溶解槽でしょうか。
溶解槽の右手がやや高い地形となっています。持込まれた原料いもはこの落差を利用して投入され たそうです。当時の澱粉工場は概ね河川沿いの低地に
造られ、地形を利用して工場搬入が行われていたようです。
溶解槽と思われる基礎部分中央に突起状の基礎があります。円形構造の作業しやすい 材質のものが更に据えつけられていたものでしょうか。
こちらは基礎部分が一段高くなっています。沈殿槽だったのでしょうか。
基礎は一体構造ではなく、二棟横並びになっています。こちらは最終工程の沈殿槽だったのでしょ うか。
更に水分を含んだ澱粉を切り出したのち、乾燥するための乾燥庫が少し離れた場所に建てられてい た
ようです。
この小さな流れも原料いも投下の際、水洗いに利用されていたのではないでしょうか。いずれの地 でもそうですが、大規模に農地開発が進み
、山林伐採が進む前の河川はかなり豊かな水量がありましたので、現在の水流とは比べようもない 流れであったと思います。
磨砕、篩に動力を伝えたであろう頑強な鉄製機材はそのまま残されていました。手前の機材は太い ベルトをかけて動力を伝える
昭和初期にはどの工場でも見られたものです。アナログですね。
遠軽町下白滝 水 神神社
北見峠の中 央道路開削殉難者慰霊の碑
美瑛町 五稜第一(阪和) 島牛澱粉工場跡
石北本線 旧天幕駅ー旧中越駅ー 旧上越駅ー旧奥白滝駅ー上白滝駅ー 白滝駅ー 旧白滝駅 ー下白滝駅ー 丸瀬布駅ー 瀬戸瀬 駅