北海道日帰り温泉の旅
平成27 年8月2日
August 2, 2015
美瑛町忠
別 忠別ダム望郷公園の忠別地蔵
忠別ダム望郷公園の小さな地蔵は、現在多くが湖底に沈んで
定住者のいなくなった
美瑛町忠別地区の開拓の歴史を見つめ続けてきた、歴史の証人でした。
忠別地蔵
大正2年丸木橋から二人の子供が落ちて亡くなり供養するために忠別川中洲に建立、大正4年の洪水にもこの地蔵は
傾きもしなかった。と伝えられています。
大正4年の一帯の大洪水では幼い子をなくした両親が慰霊のため下宇莫
別にチヨコ地蔵を建立したと伝えられ て
いますがこちらはいまだ消息不明です。(筆者にとってです。) 母は前日旭川の娘のところに行き、その時チヨ子
は連れて行ってくれと泣いて後を追ったということです。
地蔵の側面には「行年六歳山本シズエ」「行年五歳西光也」
の名が彫られていました。
碑文
私たち、忠別・ノカナン・志比内地区は 大正二年 主に長野県下伊那ちくより移住し
開拓に全員が力を合わせ 田畑を切り開き
小学校・中学校の開校と 地区発展へと また両神社も設置され 開拓者の心の支えとし
いろいろな行事も行われていた。
又、高原野菜の名産地としても、名をとどろかせ 道外市場から期待されていたのである。昭和六十二年調印後三十八戸
がこの地を去り 七十五年の歴史と 先人の労苦に感謝しこの地を去る民の新生活に幸多かれと祈るものである。
美瑛町教育委員会刊の「続祭りと祈り」によれば、元々は地
域の入植者によって忠別川中州に建立されていたようです。
大正二年とのことですから、入植直後の事故になります。
美瑛農協三十周年記念誌に設立時の組合員名簿がありました が、戦後間もなくのこの時期に亡くなった二人の子供の「姓」
は見つかりません。既に他の地に転居していたものでしょう か。建立の代表となった矢沢常蔵さんの名だけが健在でした。
チヨ子地蔵の現在については美瑛町明治大三にお住いの佐藤氏に尋ねましたが所在は不明
でした。元々が下宇莫別出身の方ですのでヒントが得られるかもしれません。
山崎三代吉を代表とする一同によって建てられた本勝寺境内の洪水殉難追悼碑