北海道日帰り温泉の旅
平成26年6月1日
June 1, 2014
美瑛町美園(大区画、美郷) 戦後開拓の地を訪ねる
終戦直前の昭和20年8月4日「北海道集団帰農団美瑛隊東京団体」として26戸137人が上野駅を出発。8月8日着。美郷に9戸が入植。
8月15日名古屋団体が名古屋を出発。8月20日26戸が美園、五稜の各地に分散入植したと美瑛町百年史にあります。続いて戦後緊
急開拓事業の大きな受け皿となったこの地ですが、今回はその痕跡をさぐってみたいと思い出向きました。
五稜五十年誌に地域の古い呼び名が概念図とともに記載されていましたので、これを頼りに当時人々が入ったコースを辿ってみることにしました。
現在最も交通量の多い五稜橋は当時なく、村山、中本を経由、美瑛川を渡り大区画と呼ばれていた瑠辺蘂の続き美瑛川左岸に下り、瑠辺蘂
高台から流れ来る小さな川を渡り、やや大きな流れとなっている瑠辺蘂川を渡り現地に入ったのではないかと思われます。
写真は中本から美瑛川に下ってきたところです。
美瑛川
大区画と呼ばれていたこの地区は大正14年ころから入植。当時6戸の集落となっていたそうですが、現在は比較的広い数枚の耕地があるほか
人家や人家跡は見受けられませんでした。
ほぼ原始の姿の美郷にたどり着いた人達にとって、先輩入植者だった大区画の地域は最も身近な存在として映ったのではないかと思います。
左折で瑠辺蘂高台に向かいますが、今回は直進し美瑛川に沿って当時の美郷に向かいます。
瑠辺蘂高台から流れ下ってくる川は僅かの水量です。
次いで瑠辺蘂川を渡り左折すると間もなく美郷です。
主要道路から僅かに入ったところで、右側が美園、五稜の高台に向かう道。僅かに直進し左折してオマン川を渡ると中ルベ、美開へ。
この分岐部付近瑠辺蘂川沿いの平坦地にコンクリートの構造物を見つけましたが、用途不明です。
美園には、極短期間ですが、唯一澱粉工場と製材工場を兼ねた施設が設けられた記録がありま
す。水力を利用したとのことですから、オマン川沿いでなかったかと思いますが、今回の探索で
見かけた幾つかの痕跡との関連は不明です。
比較的大きな人の手の入ったと思われる石が積まれた場所もありますが、こちらもそれ以上の手がかりはありません。
オマン川沿い右手に町の廃棄物処分場が見えてきました。この一帯に開拓小屋が軒を連ね、美園小学校、美園神社があったとのことです。
高台の開拓予定地では生活用水の確保が困難だったことから、この地に開拓小屋が建てられたものでしょう。
オマン川
右の傾斜を進むと廃棄物処分場ですが、既に使用は終了し覆土されています。
美郷の開拓地は高台を登りきった周辺に割り当たられたようですが、当然のことに用水の確保が至難だった為、オマン川沿いのこの地に生活の基盤を
置いたものでしょう。
廃棄物処分場の奥に二本の杭があります。当初神社跡かとも思いましたが、どうやら高台に続く道路のようです。開拓者が開墾の為日々通った道かも知れません。
車両の進入は勿論、徒歩での進入も危険な状態と思います。
こちらは廃棄物処分場からやや上流側で見かけた建物跡です。「北海道集団帰農団美瑛隊東京団体」の人々
が入植時に建設したとは考えられない造りですから、後のものではあるでしょう。
更に進むとオマン川に注ぐ沢沿いに自然に飲み込まれつつあるもう一軒の建物がありました。
美園高台を開拓地として割り当てられた人々が当初用水の確保の為建てたものでしょうか。
オマン川を遡り、美開地区まで一応の道路はあるようですが、間もなく一般車両進入禁止となっていました。
ここでUターンです。