北海道日帰り温泉の旅
平成26年7月27日
July 27, 2014
上富良野町東中 東中神社に保存されている奉安殿
西谷翁頌功碑
西谷翁頌功碑
建立昭和12年10月
西谷元右エ門は、明治28年北海道に渡り明治41年上富良野村東中に移住し、貧苦に耐えながら事業の鬼として、奮闘した。
その間、6期にわたり村会議員として活躍し、東中地区発展に大きく貢献し、郷土とともに永遠に語り伝えられる人物となった。
この碑は彼の一生を偲び、東中産業組合によって建立された。
上富良野町教育委員会
サヌキノクニ出身 安政五年午年九月九日 中北キノ 八十才 昭和十二年八月建設
上富良野指定文化財
名称「東中奉安殿」
製作年月日 大正和年九月建立
製作者 工匠 松岡氏(名不詳) 鹿嶋亀蔵氏
材質 水松(いちい)
説明
この建物は、大正四年に天皇陛下のご即位に際して、東中尋常小学校に天皇陛下の御真影の奉置所として建立されたものです。現在では奉安殿
として現存している建造物は希少ですが、建造物の材質が総て水松(いちい)を使用しているものは非常に少なく、史跡と合わせ建造物としても価値
が高く、永久に保存しようとするものである。
昭和四十八年六月十五日町文化財指定
上富良野町教育委員会
風雪に晒される屋外での保存ですが、とても大正四年に造られたものとは思えない状態の良さです。
玉垣に用いられていた石材と思われます。復元はされていませんが、熱い思いで建立されたであろう往時を偲ばせます。
原始の大森林を拓き、郷里と同じ「一人前の地域として認められるようになってきた」高揚感のようなものがあったのでは
ないでしょうか。
御造営東中同窓会
由緒
此の建物は大正四年(皇紀二五七五年 西暦一九一五年)大正天皇御即位に際し東中尋常小学校に天皇陛下御真影御下賜の御沙汰があり
よって当時の小学校校庭(東七線北十八号)に奉置所として造営され大正四年十月二十九日御真影を迎え奉安されましたが、大正十二年三月
学校全焼による現小学校再建に伴って校庭に移設され昭和十六年十月同窓生一同による皇紀二千六百年記念事業としての石造新殿の造営
寄贈が行われるまでの二十七年間奉安殿として国民的な崇拝を続けられたのであります
その後引続き倍本の熊野神社本殿として移設の上御神体を奉安し春秋に亘る部落の信仰を担ってきましたが、昭和三十九年二月東中八幡神
社えの御神体合祀により現在地に安置されたものでありまして風雪に晒された小さな建物ではありますが顧みて五十年開拓当時よりの東中の
変遷を知る因よすがとなることを思い郷土発展の歴史を探る貴重なる資料として後世の人々のために保存するみものであります
地神塔が本殿に並び建てられています。東中神社の創建の姿は社殿を持つものではなく、一基の地神塔であったようですから、
創建時の姿かも知れません。
神社本殿は鞘堂で覆われており、姿を見ることはできませんでしたが、基礎部分は石積みで相当気合の入った構造のようです。
東中開拓者顕彰の碑
碑文
遥かに明治をしのび北海道に政治の手が指しのべられて満100年、その後わが郷土東中が拓かれて70年、父祖の手よる田畑1200町歩とその土ににじむ汗の
香ひ山に残した鍬の響き遥かなる日より書きせぬ。べべルイの清流泰然と平野を見おろすオプタテシケの容姿この地に風雪にたえ苦難を忍び、原始の森を拓
き明日への灯を燃しつづけた幾多の先人を偲ぶ今や輝かしく築かれし東中の文化無限に伸び行くこの地の産業、喜びに溢れて生きぬく人々われ等の父祖
が朝には十勝岳に拍手を打って祈り、夕べには先祖の位牌にぬがづいて念じた信仰と勇気と敬意と感謝の誠を捧げん。ここに同志相ばかり明治30年以来、
拓北の雄図を胸に、深く秘めて津軽の海を渡って移り来し草創期の人々の名をつらねてその労をねぎらい功を讃えて碑を建つ。既に、この地より国家社会に
有為の人材、数多出でたり老も若きもこの碑に刻まれし開拓者の雄魂に対し、心から平れ伏されたし
昭和43年5月、誌
東中開拓者顕彰の碑
建立 昭和43年5月
北海道開拓100年、上富良野町開基70年を記念し、東中開拓の草創期の人々が116名の名を刻み、その労をねぎらい功績を讃えて、この碑が建てら
れた。今日の東中の文化・産業の発展は、原始の森を開き、風雪に耐えた先人たちの努力の賜物であり、碑建設にあたっては、地域が一丸と成り、東中
開拓者顕彰碑建設委員会が組織された。
碑文本町出身の参議院議員 故石川清一氏によるものである。
上富良野町立東中小学校
神社と隣り合う位置に小学校、裏に中学校がありますが、中学は3月31日をもって閉校しています。