北海道日帰り温泉の旅
平成26年6 月22日
June 22, 2014
旭川市東旭 川町米原 旭川市立旭川第一小学校
明治31年福島県大田 村ほかから菊田熊之助を団長とする128戸が上ペーパン(現在の米原瑞穂)に団体移住し、移住間もない明治31年、日々の食料に さえ
困窮する中にあって前 身の簡易教育所が建設されています。屯田兵の入った地域の「旭川小学校」はやむを得ないとして、山深いこの地で「第一」です。現 在の
旭川市が旭川となった とき、町名は譲らざるを得なかったものの、学校名と神社名に付す「旭川」は東旭川これを死守して、旭川〇〇小学校は総て旧東旭川 町管内
にあります。旧旭川市
の地域に旭川を冠とする名前の小中学校がないのはこんな歴史があるからでした。
明治32年入植者の手で簡易教育所が開設されこの学校の始まりとなっていま
す。自らの食料にさえ困窮する中にあって、笹の実をとって食料を補い資金を捻出した
と伝えられています。笹の実がそんなに役立つほどの量を確保できるのか常々疑問に思っていましたが、「新士別屯田史話」
河野民雄著 の中に士別屯田において
も笹の実の多くとれた年には多い家族で100俵も取れた。との記載があります。笹が大量の実をつけるのは50年に一度と
も言われています。試練を与えた神様も
ほんのちょつとだけお情けをあたえたものかもしれません。
北限の「梅の木」(旭 川市指定文化財)は校舎裏手の小公園のように整備された校庭にありました。
梅の木
旭川市指定文化財
この梅の木は 1905(明治38)年頃、東旭川村立第一簡易教育所(現在の旭川市立旭川第一小学校)の校長 八島 武平 が教育所の前身で
あった上ペーパン簡易 教育所の初代教員 岡崎 正明 の退職を記念して札幌から苗木を取り寄せ植えたといわれている。また、福島団体開拓記念誌に
よると、岡崎 正明が 移住の際、故郷福島県大田村(現保原村)より苗木を持ってきて自分の屋敷地に植えてあったものを、同氏が教職を去って亡くな
った後、八島 武平の 指示により、1911(明治44)年に現在地に移し替えられたものであるともいう。
2本の梅のうち、右側 が紅梅で、豊後という品種、左側は白梅で、白加賀という品種と推定されている。
1966(昭和41) 年1月15日、北限地帯に生育する梅としての標本的価値、約70年と推定される樹齢(推定当時)巨木な点において上川
地方では稀なものであ ることから、旭川の文化財に指定している。
旭川市教育委員会
追記
紅梅は2000(昭和 41)年夏に老齢による枯死が確認されました。現在の紅梅は2001(平成13)年春に新たに植えられたものです。
旭川市米原在住の高橋明彦氏のアドバイスをうけて編集しております。
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