北海道日帰り温泉の旅

 

 

 

 

 

平成25年9月22日

September 22, 2013

 

美瑛町北町2丁目憩ヶ森公園 戦後開拓三十周年記念塔

 

旧 陸軍の演習地であった新星、福富、御料林であった五稜が戦後開拓地として良く知られておりかつ多くの離農者を出しつつも北海道内各地の入植地と 比較すると大きな成功をおさめた地と言えると思います。

俵 真布の更に山深い大正2年に開拓に着手しその後気象条件の厳しさから廃村化した上俵真布にも 戦後の再入植があったとのことですが、昭和37年11月に8戸が集団離農し歴史を閉じています。

上 富良野町の清富も当初は陸軍管理下で美瑛町の範疇であったが、その後の調査で歴史的経緯から 上富良野町管下に組み込まれたそうで、こちらも戦後再入植で拓かれた地域のようです

 

 

美瑛町戦後開 拓の沿革

集団帰農と緊 急開拓のはじまり

太平洋戦争末 期における本州の大都市は、強制疎開、あるいは戦災で家を失い、職を失った人々が増大した。したがって食料の自給体制を確立すること は一大急務

であったっ。 政府は昭和二十年三月「都市疎開者の就農に関する緊急措置要綱」を決定し、三月には北海道に集団帰農者三万戸、二十一万人を送り込む ことにした。

北海道庁はこ れを受けて六月「北海道疎開者受入態勢整備強化要綱」を制定するとともに、道庁に「北海道集団帰農者受入れ本部を、支庁にも同支部部 を、市町村

にも受入本部 を設け、七月から順次疎開者の渡道が始まった。本町においても逸早く美瑛原野旧軍用地の六、七九八ha、ルベシベ御料林のニ、七一六 haが開放

され、八月八 日一番隊として東京隊二十六戸が、次いで八月二十日名古屋隊二十六戸が美瑛着各部落に分散収容されたが、一部は直ちにルベシベ地区に 入地

し○屋の建設 に着手翌春より家族が現地に入地した。また九月十八日~十一月五日までに復員軍人軍属十一名が旧兵舎、三角兵舎等に入り翌二十一年現 地に

分散乳地し た。続いて各地の戦災者、疎開者、外地引揚者四四六戸(一、四一七人)が原野地区に入地した。かくして地区計画もないままに入植が先 行したが開墾

という厳しい 現実に立ち向かう当初の体制はできた。また昭和二十年~ニ十四年の間にルベシベ地区へ一ニ〇戸、新たに俵真布、朗根内、置杵牛地区の 一、三〇〇

haに五十六 戸が入地した。

開拓の成果

爾来極めて困 難な開拓農業も町当局の積極的な指導援助と、道支庁開発局等挙げての推進によって今日までの三十年間に、畑地約四、〇〇〇ha水田約 四八三ha

の耕地を開墾 完成した。また道路は拡幅と一部の整備を残して九〇%を完了水道関係も全地区を完了営農基盤はその殆どが整備された。また畜産におい ては乳牛

五五〇頭余肉 牛六三〇頭余、肉豚ニ、八〇〇頭余を保有飼育する等その農畜産の総生産額(昭和五十年)は約十五億円余に達し生活文化面においても電 気電話は

全戸に導入さ れ、現在ニ三九戸の開拓農家は安定した経営を行っている

開拓記念等建 設の意義

裸一貫で美瑛 町に入植して三十年を経た。当初の入植者七五五戸のうち社会、経済の変転にともない、已むなき事情の下に現地を去った者は四六ニ戸の 多きに達した。

しかし踏みと どまって今日に至った吾々は筆舌に尽くしがたい困苦の中にあって克く開拓魂を振起し今日の成果を収めた。吾々美瑛町開拓者は改めて 吾々が本道農業

の中に残した 大きな足跡と意義を再認識しこの栄光ある歴史を永く吾が子孫と後世に伝え残すことは、吾々の責務であることを思い「美瑛町戦後開拓記 念塔」を建立

するものであ る。

昭和五十一年 十一月六日 建之

 

 

 

  

 

  

 

 

 

 

 筆者が美瑛とわずかの関わりのあった時期、美 瑛開拓農協の組合長は薦田藤五郎氏でした。美瑛農協の組合長は早坂正吉氏、
町長は安藤友之輔氏、農林課長は後に町長となる水上博氏でした。
いずれの方ともお会いしてわずかの会話をした経験がありますが、話す以前にそのオーラに圧倒されそうでし た。一つに
まとまって一本化する過程でも多くのドラマがあったに相違ありません。

濃淡別にすれば知る23名の名前が刻まれていま した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美瑛町五 稜 五稜神社

美瑛町五稜開基五十周 年記念碑

美瑛町 新星開拓碑

美瑛町新星 新 星神社

美瑛町福 美沢 福美沢神社

 

上富良野町清富  清富神社

上富良野町立清富 小学校

 

 

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