北海道日帰り温泉の旅
平成24年11月3日
November 3, 2012
旭川市 末広 鷹栖神社
昭和17年、本道農村ではじめて県社に列格となったという位の高い神社のようである。明治28 年の鷹栖村戸長町役場開設時をを創祀とするがその後分村、
境界変更、合併などがあり、現在は旭川市内になっている。神様もいつの間にか旭川市に登録され て面喰ったのではなかろうか。
かつて旭川神社は実は旭川市内の神社ではなく、東旭川町の神社で、合併によって多少違和感解消 した経緯があり、また神楽神社も分村、合併の歴史を
抱えており、これらの神社も困難な時代の局面に遭遇したのではないかと思われる。
現在はこのような制度 は存在しないが、一糸乱れぬ?発展を続けてきた永山神社ですら昭和20年を待って県社に昇格とありますから、出世頭だったのですね。
現在でも地域の人々の 崇拝あつく、神社庁から度々表彰を受けていると神社委員の人からうかがいました。
鯉登 行一こいと
ぎょういち昭和16年、陸軍中将に進み第7師団長に親補とありますから、その縁でしょうか。
昭和十八年五月 奉納者名に東鷹栖村近文四線六号の住所が見える。
その後は旭川市に編入されています。
忠魂碑は各地のものは太平洋戦争後までの戦没者を含めて慰霊されている場合が多いのですが、鷹栖神 社の場合は明治で止まっています。
鷹栖町では戦没者慰霊の塔が町役場前の広場に「鷹栖町戦没者慰霊の塔建立期成会」の名で建てられて います。
12名の名前が彫られています。日露戦争で屯田兵に多くの犠牲者が出たことは知られています が、屯田兵が置かれていないこの村でも12名もの戦没者が出ているのですね。
明治四十年八月建之 発起人鷹栖村在郷軍人団及び有志一同とあります。
馬魂碑
昭和47年にこの地に遷されたようですが、建立は昭和20年7月8日となっています。
8月15日が玉音放送のあった終戦の日ですから、その直前のことだったのですね。
国崎登中将、留守第7師団長となり、旭川師
管区司令官として終戦を迎えた方のようです。
馬魂碑の浦には「北鎮旭川砲兵隊」と彫られています。
こちらは標示や手がかりになるものがなく不明です。
巨石の前が祭壇のようにも見えます。
野菜ラーメンではいつもお世話になっています。「山田もやし店」の名もありました。
合祀されている六號神社。一線六号の氏子さんが狛犬を奉納していますから、その付近にあったも
のでしょうか。
一線六号は、現在の末広1-1あたりでしょうか。旭川市街軌道師
団線の終点が一線六号です。
六號神は建て替えされ たもののようです。
鷹栖町在住で神社委員もしておられる大向裕一さんのお
話もヒントにこのページを作成しました。
旭川市 末広 鷹栖神社