北海道日帰り温泉の旅

 

平成24 年11月23日

November 23, 2012

 

旭川市永 山 永山神社と境内上川水田発祥の地の碑

永山、当麻、東旭川、の三つの村はいずれも屯田兵によって 拓かれた歴史を持つが、その中でも最も歴史の跡をとどめているのが、永山神社
かも知れません。管内では、最も恵まれた入植地のようになんとなく思ってい たのですが、村存亡の危機も経ての今日があるようです。

 

 

 

 

 

手水舎の傍らで銀杏を拾う年配のご夫婦がおられました。そ れも風情のように感じます。

 

 

 

 

 

明治ニ十四年開村の碑

 

 

 

 

 

永山開村之屯田兵

裏面一面に屯田兵として入植した人達の氏名が刻まれていま す。

 

 

 

有限責任永山信用組合を設立し村経済再建を計った収入役森 谷嘉七の名が刻まれています。

永山信用組合とは永山農業協同組合の前身のようです。

和久時三朗は大正9年就任の七代目村長で、和久と森谷の運 命的出会いがネット上に掲載されていました。

 

 

 

上川水田発祥之地 の碑

碑の作られた当時 の農林大臣は河野一郎だったのですね。ともあれ、何故か上川稲作発祥の地は雨紛と永山の両者がその栄誉を競っているかのよう です。
永山兵村は明治24年の試作では失敗翌年わずかの生産を上げることができたとの説が有力です。屯田兵屋建設のため一足早く雨 紛に入っていた
杉沢繁吉
に軍配は上がるのではないでしょうか。しかしながらその後の永山兵村の稲作栽培成功は当麻兵村、東旭川兵村、さらに管内の稲作栽 培へと波及し昭和
三年管内の米生産量は百万石(15万トン)に達しており、永山兵村の稲作に果たした役割は大きなものがあります。

旭川市上雨紛 上川水稲発祥の地の碑 

 

 

 

 

「明治24年 水稲試作者 永 山屯田兵山口千代吉、屯田家族加藤米作」と刻まれています。

 

 

 

 

永山武四郎の像

 

 

 

 

 

永山武臣は永山武四郎の孫で松竹社長・会長をつとめた文化 功労者で平成18年故人となっています。

 

 

 

 

 

どのような縁のある方なのかとつい思いを巡らしてしまいま した。

勿論、不明です

 

 

 

忠魂碑

 

 

 

昭和4年第七師団長新 井亀太郎の名が見えます

 

 

 

昭和5年6月の建立のようです。第七師団長新井亀太郎は昭和6年に予備役となっています。

 

 

 

 

 

「反始」とは始めにかえるの意味のようです。報 本反始。

 

 

 

「香川県大川郡相生村に於 屯田兵長峯利三郎家族トシテ  長峯貫太郎」の文字が読み取れます。「八十四才」でしょうか。

長寿者に酒肴料が下賜された記念だったのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百度塔となっています。

東川神社で見かけたものに良く似ています。上に掘られてい る部分はどのような意味があるのでしょうか。

 

 

取材にあたり旭川永山在住の伊藤隆氏にアドバイス をいただきました。


そのT
そのU
そのV


旭川市   JR宗谷線永山駅


 

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