北海道日帰り温泉の旅
平成24年10月14日
October 14, 2012
東神楽町 東神楽神社
東神楽町で最も規模の大きい神社が東神楽神社であることは間違いのないところなのですが、旭川空港近くの小高い丘にある稲荷神社
も良く整備されて広い境内を持つ神社です。残念なことに、ネット上は勿論、参拝時の石碑等の観察でもその由来は明らかになりません
でした。今回の東神楽神社参拝で、そちらの手がかりもと思っていたのですが、両神社の手水石の献納者に同一人物と思われる氏名を見
つけただけで大きな収穫はありませんでした。
昔の社格で言えば東旭川の旭川神社や当麻町の當麻神社が郷社、鷹栖神社に至っては「昭和17年、本道農村ではじめて県社に列格」
となっています。東神楽神社は村社。やはり大正時代の小作争議、戦時中の分村 などの歴史的背景が災いして出世を妨げた?
でも、鷹栖町においても、小作争議、分村の歴史はかなり強烈な歴史となっているので、それだけでもないのでしょう。
しかしながら、街の中心部の小高い丘に絶好の位置取りをして明治30年から動くことなく地域を見つめてきた神社はさすがに歴史の重み
を感じる荘厳さがあります。
この地方では珍しい百度石などというものがありました。大正14年十月の建立です。家族の病気快復を祈っての
お百度参りだったのでしょうか、それとも戦場に向かった家族の無事を願ったものだったのでしょうか、
義経台の由来
その昔 兄の源頼朝に追われた源義経は 奥州平泉をのがれ アイヌ達の導きで北海道に渡り 道南 日高地方にかくれ住み 各地で
カムイハンガンと尊称され 英雄と仰がれた その折に東神楽のこの丘に登り アイヌ達と酒を酌み交わし アイヌ達は義経公を音読み
してギケイコウと呼び 義経を称え拍手をして散会したとのことである 義経が旅立ったあとも数百年 アイヌ達は義経を慕ってこの丘に
登り 酒を酌みギケイコウと唱え拍手をして散会する様子を 開拓の古老が聞き○えて この丘を義経台と名付けたという そしてこの丘
を最適の所と選び 明治三十年祠を建立したのが 鎮守東神楽神社の創まりである と記載があります。
神社庁のホームページ上に「西崎幾三郎が初代社掌となり管理した」とありますが、名簿の中にその名が見えます。
明治30年、当初は神楽神社と称したと記載があります。
大正十五年六月に奉納されたもののようです。東神楽神社と刻まれています。
平成八年に百年記念事業として大改修が行われた模様です。
神楽神社神殿改築記念碑となっています。まだ、東神楽神社と称されていない時代のものです。
明治四十一年九月の文字が刻まれています。現在の本殿はこのとき既に建立されているようです。
大正九年1920年に西山、大林さんが献納した手水石の基礎の石は80年後におそらくその子孫の
方たちが献納しています。ただ、現在は巨大な手水石に世代交代しており、隅の方で寂しそうです。
稲荷神社にも大林三郎さんの寄進した手水石が残っていて、こちらは大正十二年の文字がありま
した。石の質感や構造も類似していますので、おそらく同一の方でしょう。