北海道日帰り温泉の旅

 

平成24年8月26日

August 26, 2012

 

美瑛小学校敷地内 美瑛町文化財第2号 旧陸軍演習場廠舎門柱

美瑛町文化財第1号は高橋北修 筆 「絵画」6点で、大正二年の凶作では味噌桶を煮て塩分をとったと説明のある画、死者48名
を出した大正四年の宇莫別川氾濫の画など衝撃的な歴史の跡が描かれています。こちらは美瑛 郷土資料館で見ることが出来ます。



美瑛町文化財第2号

名称 旧陸軍演習場廠舎門柱

種類 記念物 (史跡)

員数 1対

所有者 美瑛町

所在 美瑛町西町2丁目1番1号

指定 平成9年5月13日

明治40年2月14日陸軍演習場規則の発布に伴い、陸軍第 7師団美瑛演習場が同年美瑛村字美瑛原野(現在、新星、福富、水沢、三愛と美馬牛

、水沢の一部)の丘陵に創設された。

歩兵、砲兵の先頭射撃訓練を目的とした演習場は 6728.92haに及び、併せて歩兵一個連帯を収容する衛戍地(兵舎12、連隊、大隊本部2、

炊事場3、厩舎7、浴室3、診療所1、酒保1、衛兵所1、 弾薬庫1、主管官舎1、標的庫1、敷地面積14.08haを擁していた。門柱は、この敷地

の営門に建てられていたものである。

終戦後、演習場用地は食糧増産のための集団帰農者や復員軍 人、海外引揚者、戦災者などの緊急開拓地として入植がすすめられ。「師団山」

と呼ばれていた演習場もむ「平和郷」と命名された。同じく 旧廠舎施設は町町役場管理のもと、引揚者の長屋住宅、美瑛中学校、永山農業高校

美瑛分校(現美瑛高校)などに活用し、この地域を昭和34 年12月末日まで「緑町」と称した。

 

 

門柱には終戦直前機銃掃射で受けた弾痕が残っているとのこ とですが、右側の複数の小さな穴がそれでしょうか。

 

美瑛小学 校敷地内 美瑛町文化財第2号 旧陸軍演習場廠舎門柱

美瑛町 新星 開拓碑

美瑛町 新区 画ダム

美瑛町 昭和6 年福島から集団移住開拓の行われた二股地区
旧二股小学校 中学校

 

 

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